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国立大学法人群馬大学情報学部・情報学研究科
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教員紹介

吉川 正人准教授

吉川 正人
専門分野

理論言語学、コーパス言語学

経歴

最終学歴/学位: 慶應義塾大学大学院文学研究科 英米文学専攻 後期博士課程 所定単位取得退学/博士 (文学)
職歴: 慶應義塾大学 非常勤講師 (文学部・理工学部 [2013年4月~現在]、法学部 [2016年4月~2023年9月]) ほか

研究概要

ヒトの持つ記憶や学習、意識といった「認知」の問題と、対人コミュニケーションや集団の中での共有といった「社会」の問題双方から「ことば」の本質について研究しています。

研究内容

  • ヒトの認知と社会的性質に基づく文法理論の構築
  • コーパスデータを用いた言語構造に関する実証的な研究
  • ヒトの持つ「規則を作り出し」「規則に従う」性質に基づく言語の起源と進化の研究

代表的な研究業績

・吉川正人. 2021. 認知言語学の社会的転回に向けて:「拡張された認知」が切り開く認知言語学の新たな可能性. 篠原和子・宇野良子 (編). 実験認知言語学の深化 (pp. 213-238). 東京: ひつじ書房.

・吉川正人. 2020. 言語知識はどのように運用されるか ―「得る」ための知識から「使う」ための知識へ. 中山俊秀・大谷直輝 (編). 認知言語学と談話機能言語学の有機的接点 ―用法基盤モデルに基づく新展開 (pp. 111-135). 東京: ひつじ書房.

・吉川正人. 2017. 社会統語論の目論見—「文法」は誰のものか. 井上逸兵 (編). 社会言語学 (pp. 146-167). 東京: 朝倉書店.

専攻分野・研究内容紹介

私が専門とする言語学という分野は、音、意味、文法、コミュニケーションなど、ことばのあらゆる側面を扱う学問です。ことばは普段無意識に使っているもので、我々にとって非常に馴染みの深いものですが、そのような「日常性」がゆえに、学術的に研究しようとするとなかなか難しく奥深いものだということに気づかされます。

例えば、日本語を「母語」として身に付けた日本語母語話者にとって、日本語の「構造」や「特性」を説明することは非常に難しいことではないでしょうか。日本語を当たり前のように使いこなしているにもかかわらず、その背後にある規則性には「気付いていない」のです。また「日本語は曖昧だ」「日本語は美しい」のような言説を聞くことはよくありますが、その多くは一部の表現だけに着目した偏った見方であり、日本語という言語のあらゆる側面を観察した上で特徴を精緻に記述し、他の多くの言語と比較した上で客観的に導き出したものではないと言えます。

ということで言語学では、何らかの形で「言語データ」を観察・記述した上で、なるべく客観的にことばの性質や構造を分析することを目指しています。よくこの営みは「物理学者が自然現象を観察する」こと、「生物学者が生物を観察する」ことなどになぞらえられます。ことばは身近でありヒトの作り出したものですが、同時にデータとして客観的な観察対象になりうるということです。

しかし、ここにもことばという対象特有の難しさがあります。そして、私の研究上の興味はまさにそこにあります。

難しさの一つは、「ことばは変化する」ということです。日本語でも、英語でも、どのような言語でも、ことばというのは常に変化し続けています。これは自然現象の背後にある自然法則が変化しない (と想定されている) ことと好対照です (その点では生物学により近いものと言えるかもしれません)。そして興味深いことに、なぜかヒトはこの「変化」を往々にして「嫌う」傾向があるということです。「最近の若者はことば遣いがおかしい」「近頃ことばが乱れている」のような不満は、どれだけ歴史を遡っても、いつの時代でも呟かれているのです。つまり、現代から見れば「昔はよかった」とされる時代でさえ、さらにその前の時代に思いを馳せ、「昔はよかった」と思っているということです。

このように、ヒトはことばに対して「こうあるべきだ」「こうであることが正しい」というような「正しさ」の幻想を抱いています。「規範意識」と言ってもいいかもしれません。ことばというのは常に変化し、新陳代謝を繰り返している流動的なもので、どこにも「正解」は無いのですが、なぜかヒトは存在しない「正解」を勝手に作り出し、その存在を信じて疑わないのです。これは逆の見方をすれば、常に変化し続けている捉えどころのないことばというものに秩序を与えているのは、ヒトが勝手に「正解」の存在を妄想してしまう規範意識そのものではないか、ということも言えそうです。

このことは、もう一つの難しさにもつながります。それは、「ことばは集団のもの」だということです。「集団」は「社会」と言い換えてもいいかもしれません。ある日あなたがあなた独自のことばをつくりだし、その日からそのことばを使って家族や友人とコミュニケーションをとろうと思ったとしても、そのような試みは失敗に終わるでしょう。なぜなら、あなたの考えた単語や文法は、家族や友人の誰にも共有されていないからです。ことばは複数の個人に共有されて初めて意味をなす、本質的に社会的な性質を持つものです。

しかし一方で、「集団」や「社会」が存在するのは、それを構成する「個人」が存在するからで、ことばを使うのはあくまでもその個人です。また「ことば」は「どこにあるのか」という問題もあります。日本語や英語などの言語が確かに「存在」していると言えるのは、それを使っている個々人がその言語を「知識」として習得しているからです。使用者が1人もいなくなってしまった言語は文字通り「消滅」してしまうのです (これも言語の消滅、危機言語の問題として議論されています)。書物などの形で文字として残すことはできると思うかもしれませんが、それを「読める」人がいなければ、文字は単なるインクの染みの集合体にすぎません。

従って、「ことばを使う」のも「ことばについての知識をもつ」のも個人なのに、「ことばが成立する単位」は集団や社会である、という不思議な現象が起きていることになります。この「不思議」を解消させるには、「ことばは集団のものだが、その集団は個人が分散的に成立させているものである」と考えればいいかもしれません。つまり、「個人か集団か」という二項対立で考えるのではなく、「集団の一員としての個人」というパズルのピースのような考え方をするということです。別の言い方をすれば、ことばについて考えた時には、ことばの「使用」も「知識」も、たった一人の個人では完結しない、ということです。「使用」には「相手」が必要ですし、「知識」についても、一見一個人だけで完結しているようにも思えますが、「ありとあらゆる日本語を完璧に網羅している日本語話者」は恐らく存在しないので、個々人が少しずつ「知識」を寄せ合って集団全体として成立させているものだ、と考えた方がよさそうです。

以上見てきたように、ことばの成立には「規範意識」というものが重要な役割を果たしていると言えそうです。また、「個人の知識」とそれが集まって成立する「集団の知識」という見方もことばの性質を捉える上で重要に思えます。私はこのような想定から、「規範意識」、および個人の「知識・記憶」とその集団での「共有」という観点でことばの本質を理解しようとしています。

さてこのようなことばに対するまなざしは、情報学部における実践とどうつながるでしょうか。言わずもがな、ことばというのは情報の一つです。あるいは情報を媒介するものだと言った方が正確かもしれません。会話を録音した音声データやインターネットから収集したテキストデータなど、今や「ことばのデータ」を集めるのは極めて簡単になりました。しかしこのようなデータをいくら集めても、それを使って「何を知りたいのか」ということが定まっていないと、データの海におぼれてしまいます。音声を構成する空気振動そのもの、テキストを構成する文字そのものには「意味」は無いのです。それに「意味」を与えているのは、とりもなおさずそのようなことばについての「知識」を持ち、そして「使用」している我々です。ことばについての情報を分析するとは、このように、データの「向こう側」にあることばの使用者たちを見るということです。

無味乾燥なデータの配列から人間や社会を見る。そのための基礎的な考え方や解釈の枠組みを与えるのが言語学であり、言語の理論なのです。


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